昨日、欅坂46のドキュメンタリー映画である「僕たちの嘘と真実 Documentary of KEYAKIZAKA46」を見てきました!
色んな感想を持つ人がいるだろうなと思いましたが、見ることができて良かったなと思います。
今回はその感想です。
以下、映画のネタばれが結構入っていますので、「ネタばれされたくない!」という方は閲覧を避けてください。
真実と事実
真実と事実というのは、似たような意味合いで使われることも多いですが、現実には意味合いが微妙に異なっています。
簡単に言えば、真実は事実によってつくられる一種のストーリーです。事実がもとになっているので根も葉もない話にはなりませんが、提示される事実によって真実は揺らぎます。
例えば、交通事故が起きたとき、お互いの言い分が食い違うときがありますが、あれは事実によってつくられる真実がお互い異なるために起こります。追突されたと主張する人は自分は交通ルールを守っていたのに後ろの車がぶつかってきたと言い、追突した側は前の車が急ブレーキを踏んだというかもしれません。二人に共通する事実は「前の車が止まり、それに後ろの車がぶつかった」というものですが、前の車が何キロで走っていて、何メートル前からブレーキを踏んだのか。後ろの車の車間距離はどうだったのか。こういうもっと細かい事実を積み重ねなければ、「真の真実」は見えないのです。
だからこそ、今回の映画は「監督が選んだ事実」によってつくられる「ある一つのストーリー(真実)」であることに注意が必要です。
限られた事実によってつくられる真実には、いつもそれをつくる人の「解釈」が入り込み、主観性を帯びるのです。
したがって、以下に私が書く感想も、そういう「主観性を帯びたもの」であることに留意してください。皆さんが考えている感想や解釈もまた同様です。
平手友梨奈は強くて弱い人
映画は東京ドーム公演直前から始まりました。てちが茫然自失としているような表情で現れ、メンバーに背中をさすられていました。そのあと、座り込んで、あかねんが手を握る。みんなが何と言っているのかは分かりませんが、「大丈夫」とかそういう類のことを言っているのかなと思いました。
この、てちがパフォーマンス前に「いやだ!」と言ったり、苦しんでいるような表情を浮かべるシーンが映画では何度も何度も出てきます。それをスタッフが送り出すところも。
しかし、彼女はステージに上がると、それがまるで嘘だったかのように人を魅了するパフォーマンスをする。
平手友梨奈という人物はパブリックイメージとして、良くも悪くもとても強い人という印象を持たれていますが、この映画から見えるのは彼女の弱さです。
緊張しいで、人に心を開くことが得意でなく、表現という面で自分に嘘がつけない。
これらは上手く世を渡っていくためには「弱さ」になります。でも、彼女はそれを持ちながらも圧倒的な表現力があった。その弱さを吹き飛ばすような「強さ」が、同じようなコンプレックスを持っているファンの、そしてメンバーの憧憬の的になりました。それにより、ますます本人が望む関係構築が困難になっていった。
後述しますが、それとは少し違う感覚を持っていたのは小林由依であり、2期生(特に田村保乃)だったのではないかと思います(保乃ちゃんとてちの関係はほとんど映画では描かれませんが)。
彼女のそんな弱さと強さが、欅坂46をここまで引っ張ってきて、そして同時に欅坂46を終わりに向かわせたという側面は、否定しがたいのではないかと思いました。
でも、それは悪かったとか、そういうことではなく、「そういうもの」なんだと思います。
ところで、序盤、要するに活動初期のてちが「自分で納得のいくパフォーマンスができたら、自然と涙が出ると思うんですよ。でも、涙が出ないから、全然納得してないんですよね。いつか来ますかね?そういう日が!」と言っていましたが、2019年紅白のあと、横になっている彼女は泣いていました。あの涙はどういうものだったのでしょうか?
答えは分かりません。
9thは10プーだった
今回の映画の大きな事実としては、「10月のプールに飛び込んだ」がおそらく9thシングルだったということです(ベストアルバムからある程度推察はできましたが)。MV撮影も行われていたことがはっきりと分かりました。
MV撮影の初期には参加していたてちですが、後半は参加せず、結局9thは制作中止となりました。
途中から参加しなかった理由としては、今野氏いわく「この歌詞と世界観をどう表現したら良いか分からない」というものでした。
私自身は10プーは好きな曲で、「聞かせろ~!」と言っていましたが、カップリング曲になると思っており、表題曲だったのは意外でした。
確かに表題曲としては明るく、今までの欅坂の曲に比べて重さがありません。歌詞がまだ分からないのではっきりしたことは言えませんが、「僕」の物語という意味ではかなり新しい局面です。
前曲が「黒い羊」で、「死」を連想させる曲だったので、そこから10プーのような明るい?曲に行くのは難しかったというのは分からないではありません。
実際、10プーなら、てちがセンターである必然性はあまり感じないのが正直なところです(ずっとイオンカード選抜かな?と思っていました)。
ただ、この制作中止はもっと複雑だったのではないかと個人的には思いました。そんな簡単な話じゃなかったはずです。最初から出るつもりがないなら、もっと早くにそういう決断になっていたはずです。この辺はてちが話さないと分かりませんね。
「平手坂」は半分正解で、半分間違い
アンチや週刊誌には、欅坂は「平手坂」だと言われることがありました。てちが女王様のようにふるまって、ほかのメンバーはバックダンサーだと。
それに対して、ファンは「平手はそういう人間じゃない。ほかのメンバーもいいところがいっぱいあるんだ」と反論してきたわけですが、この「平手坂」という表現は半分正解で、半分間違いだと思いました。
平手友梨奈という人物は、他者に対してわがままに振る舞うということをする人ではありません。思いやりが強く、表にはあまり出していませんでしたが、メンバー愛も強い人だと思っています。ラジオでも「頑張って」ではなく「応援しています」を意図的に使い、言葉の使い方に警鐘を鳴らすこともあるなど、とても優しい人です。一方で、特に表現やクリエイティブな部分では自分に嘘がつけない人物であり、それは映り方によってはわがままだと言われるかもしれない。実際、シングルが1本飛んでしまったのは事実ですから。
ですが、欅坂がこうなったのはてちのパーソナリティとは直接関係ないのではないか、ということが映画では提示されます。
活動の前半では、私の想像以上にメンバーがてちに頼っており、「平手無しでは欅坂ではない」という境地に達しています。このため、初めててちがライブを欠席し(当日にメンバーに知らされる)、代理センターを立ててはどうかという話になったとき、メンバーの多くはそれに賛成しませんでした。
あかねんは「平手だから、私たちはバックダンサーでいいと思える。ほかのメンバーだったら同じ気持ちになれるか分からない」と言っています。
メンバーの多くは平手がセンターなら、私たちはバックダンサーでいいと言い切れるだけの信頼を彼女に寄せており、平手欠席ライブの観客の反応を見て、曲のメッセージを伝えるには平手が絶対に必要なんだという思いを強めていきます。
しかし、2017年の紅白の後、てちが「一度欅坂を離れたい」と休業を希望します。これに対して、ほかのメンバーは「いてほしい」「離れない選択肢はないの?」と引き留めました。このとき、てちが「活動をやっていて楽しいですか?」とメンバーに問いかけていたのが印象的でした。
結局、てちは公式な休業を選択せず、そのすぐあとに「ガラスを割れ!」のMV撮影に臨んでいます。あんな状態でMVを撮影していたのには、かなり驚きました。ただ、実際はこのあと「響」の撮影があり、事実上グループ活動から離れるかたちになりました。今考えると1つの落としどころだったのかもしれないですね。また、2018年初めの武道館公演をしないという結論になったのは、この休業希望の一件があり、メンバーも整理がついていなかったこと(平手無しでは無理!)が一因だったのかもしれません。
こういう部分を見ると、バックダンサーという意味では「平手坂」という揶揄は半分正解です。しかし、それは彼女のパーソナリティに起因するものではなく、彼女の持つ圧倒的な表現力と欅坂1期生の内向的な性格が組み合わさってできた状態だったのではないかと思えます。この意味で「平手坂」という表現は間違いでもあります。自分たちでそれを選択したのです。だから、それが「(そのときの)欅坂」だったわけです。
菅井友香のもがき
ゆっかーは欅坂の中で、てちとは別の象徴的な存在です。
パンフレットで「欅坂の好きなところは?」という質問に多くのメンバーが「みんなが優しいところ」と答えています。あかねんも雑誌のインタビューで「欅坂のメンバーはみんな本当に優しい」と言っており、ときに酷なくらい優しいのが欅坂の特徴です。
この「優しさ」の象徴的な存在が、菅井友香という人です。
彼女は、欅坂のキャプテンなので、いわゆる「集団主義的なベクトル」でものを考えなくてはいけない局面も多かったはずですが、それでも欅坂の持つ「個人主義的なベクトル」を殺したくない、みんなの個性を活かしたいという思いを持っていることがうかがえます。
ですが、その2つのベクトルが真っ向から対立するものなので、バランスをとるのは非常に難しいです。しかも、その「個性」の極致には平手友梨奈という存在がいる。これは彼女を大いに悩ませたはずです。
劇中のインタビューで「平手さんに、もっとしっかりしてよと思わないの?」と聞かれ、言葉を選びながら「てちは天才的なところがあって、でもグループとして上手く回す必要もあって。それまでメンバーがついてきてくれるのか……」とほかのメンバーも含め、唯一インタビューで涙を流したところが使われていました。
ずっと相反する、しかし欅坂にとって必要なベクトルの衝突に悩んできたのでしょう。でも、彼女の強さは、そういう中でも安易な結論に逃げないところだと思います。
「グループのためなんだから」と例えばてちに「従え」と言うことは簡単でも、てちの良さや天才的なところへのリスペクトも相まって、そうはせず、それを活かしながらグループを上手く成り立たせることに骨を折ってきたんだと思うんですよ。
ただただ難しい、答えのない問いに立ち向かうことが出来る。それが彼女の強さであり、彼女のキャプテンシーなのだと思いました。「ゆっかーのためなら」とほかのメンバーに思わせられる強さを彼女は持っているし、内向的な子が多い欅坂にあって、虹花ちゃんの言うところの「崖から落ちる」のを踏みとどまらせる大きなピースになっていると私は思います。
小林由依の俯瞰的視点
劇中のインタビューで唯一トーンの違いを見せていたのは、ゆいぽんです。
常に冷静で、俯瞰からグループを眺めることができているように思いました。
てちに対してのコメントも、ほかのメンバーが「感謝している」「頑張ってくれた」という類のことを言っているのに対して、「ほかのメンバーと違うだろうから、ここでは言いづらい」と言及しませんでした。
これは色んな解釈があるだろうと思いますが、私はてちを対等なメンバーとして見ていたからではないかという気がしています。てちを特別視せず、「私は私、平手は平手」といい意味で区別できており、てちの色んなアイディアや表現に対して、きちんとレスポンスができる人だったのではないかと思います。(年齢が近いというのもある?)
これもあってか、活動後半は「こば、こば」とラジオでてちが話す回数が増えたような気がしますし、ゆいぽんを信頼していたような気がします。
なので、ファン目線のような受け身なコメントはしたくないという思いがあったのかなと。
また、「今泉はライバルでもあり、共感できる人だった」というようなことを話していましたが、ずーみん・ゆいぽんは欅では珍しく、明確に「芸能界に入りたい」という思いで加入してきたメンバーです。だからこそ、「あの圧倒的な才能とは別に何ができるのか」を考えてきたと思いますし、向上心をずっと持ってきたんだと思うんです。
ずーみんは途中からグループでの活動が難しくなって、結局欅坂で最初の卒業生になりますが、これはベクトルが違いすぎたことが一つの要因なのかなと思いました。個人の強さを目指したい人と、グループの「歯車」でいいというベクトルはあまりに違います。
ゆいぽんはそこはもう少し冷静に見ていて、そういうグループの中でも個を活かす道を探ってきて、今に至っているのかなという気がします。
これから改名して、どうなるかはまだ分からないですが、彼女の俯瞰してグループを見れる強さは必要になってくるはずです。
石森虹花の愛情
この映画の主人公というか、中心として語られるのは平手友梨奈ですが、それ以外にも印象的な人物が数人おり、そのうちの1人が虹花ちゃんです。
とにかく彼女はメンバー想いで、誰かが苦しんでいるときに真っ先に駆けつけて、なぐさめる。そういうシーンが幾度となく出てきます。
なんというか、精神安定剤というか(笑)
いつも困ったら虹花ちゃんがいる。
彼女は欅坂にとって、とてつもなく大きな存在なんだなと。
印象的だったのは、9th選抜の発表を受けての話で「私が何で入らないんだとかは1ミリも思わなかったけど、みいちゃんや冬優花がなんで落ちるんだと。冬優花がいるからダンスがまとまってきたんじゃないか、みいちゃんがいたから全国ツアーでセゾンを踊ってくれて成功したんじゃないか。そう思ったら、怒りに変わってきちゃって。欅坂は全員で勝負してきたんですよ」みたいなことを言っていました。
これはグループアイドルのメンバーとしては、とても変わった発言のように思えますが、この「全員で欅坂なんだ」という思いは欅坂らしさを構成する1つのピースだと思います。
欅坂への愛情が人一倍強くて、苦しんでいる人の気持ちが分かって、人のために怒ることができる。こういう人はきっと多くない。
この愛情が欅坂を守ってきたんだなと強く思いました。
小池美波の成長
今回の映画では、みいちゃんの成長にもフォーカスが当てられています。これはこれからのグループの方向性を示唆するものだからなのかな、と個人的には解釈しています。
1つの転機は、2018年の全国ツアーでのアドリブでしょう。映画でも2回出てきますが、ツアー最終日、ガラスを割れ!をやっている最中、てちがアドリブで花道に繰り出していき、ヘッドセットが外れるような激しいパフォーマンスをしました。そして、曲が終わり、ふらふらしていると、花道から転落(アドリブだったので花道に照明が当たっておらず、スタッフも少なかったのが一因でしょう)。このあと救急車で病院に運ばれることになります。このため、以降のパフォーマンスはセンターを空けて行われました。(なお、てちはラストで戻ってきて、涙涙の「W-KEYAKIZAKAの詩」になります。ユニエアでやってみてね)
ただ、みいちゃんがフロントを務める「二人セゾン」はセンターがソロダンスを踊るパートがあります。このソロダンスは代理では葵ちゃんが踊るのが通例でしたが、このとき葵ちゃんは休業中。このままソロダンスを空けるのかどうなのか。演出上は空けることになっていましたが、みいちゃんはアドリブでソロダンスパートを踊りました。
これは自分に自信がないと言うことが多い、みいちゃんの成長が如実に見られたシーンとしてファンの間では有名です。
その後、二人セゾンの代理センターを再び務めることになったみいちゃんですが、「私なんかではダメだ」とスタジオの端でうずくまってしまいます。そこにTAKAHIRO先生が来て「僕は小池がいいと思っています。誰かではなく、過去の自分をライバルだと思ってほしい」と言います。「小池のセゾンをつくればいいんだよ」ということですね。
これを受けて、「平手のセゾンと対になるようなパフォーマンスをしたい」と思うようになり、それを見事にやってのけるわけです。
この成長もあってか、配信ライブでも「アンビバレント」のセンターを務めていましたね。
この「平手を追いかけるのではなくて、自分の思う表現をしてほしい」というTAKAHIRO先生の考えは今後も大きな柱になると思います。
改名をしても、メンバーは基本的に変わらないわけですから、「もし平手がいたら」という感覚を持つ人も一定数残るでしょう。それでも自分を信じて表現をしていくことで、誰かに伝わるものになると思うんですよ。
そういう未来への懸け橋として、みいちゃんの話にフォーカスが当たったのかなと思いました。
改名は最後のリスペクトかもしれない
改名については今も様々な思いを持っている人がいると思いますが、映画を見ていて「これは平手友梨奈への最後のリスペクトなのかもしれない」と思いました。
彼女がまるで命を削るかのようにパフォーマンスをしてきたこと。一度休もうとした彼女を未熟さから引き留めてしまったこと。「欅坂といえばこれ!」というものを作りあげてきた尊敬。それゆえの未来への不安。
そういう一種の贖罪、敬意、不安が特に1期生を改名へ向かわせたのかもしれないなと。
なんか、「泥を塗れない」みたいな感覚というか。
過去の素晴らしかった「欅坂」にこれからの私たちが泥を塗るわけにはいかない。それは平手に失礼だ。同時に、その平手への視線を断ち切らなくてはいけない。メンバー自身も、ファンも。だから、名前を変えて、新しいグループとしてやっていこう。それができるのは、幸か不幸か活動を制限せざるを得なくなった今しかない。
そういう感覚があったんじゃないかなあ、なんて想像しました。
大人の役割って何でしょうね?
インタビューでTAKAHIRO先生に対してインタビュアー(監督?)が、「大人の役割って何でしょうね?」と問いかけています。
TAKAHIRO先生は「大人の役割……見続けることじゃないでしょうか。見守り続けること。大人と子どもということで言えば、そうだと思います。どう思います?」と返していました。
これはファンへの問いでもあるんでしょう。
あんなにボロボロになるまでやらせて、それを美談にしてしまう大人・ファン。それってどうなんだろうね?というのは、欅坂をあまり知らずに映画製作を始めた監督ならではの質問だなと思います。
私個人の考えを言えば、子どもの感情を尊重しながら、その人の強みを活かせるようにサポートするのが大人の役割だと思っています。
だから、欅坂を応援するときにも基本的にそのメンバーの強みが活きればいいなと思っています。
てちの強みが何だと判断していたのか、てちが何をしたいと思っていたのかということは、情報が少なすぎて何か言えるわけではなく、見た目はショッキングでも本人がどう考えていたのかは分からないので、てちが「かわいそう」というような感想はあまり持ちませんでした。ただ、あんなにボロボロな状態でのパフォーマンスを結果的にするように追い込んでいたという部分で罪悪感を感じた部分はあります。
誰がその鐘を鳴らすのか?
欅坂の最後の曲は「誰がその鐘を鳴らすのか?」です。
黒い羊でいなくなったように思える「僕」、そして平手友梨奈。
そうなったあとで、どうしていけばいいのかという問いをメンバー、そしてファンにぶつけた曲なのかなと改めて思いました。
そのほかに気になったところ
黒い羊のMV撮影終了時に、みんながうずくまるてちに集まったのに対して、もんちゃんだけが立っているというシーンがありましたが、あれはなかなかインパクトがありましたね。
ゆっかーだけがそれに気が付いているように思いましたが、もんちゃんがどういう思いだったのかは気になるところです。
少ないですが、ほほえましい場面もありました。2期生はやっぱり明るくて、欅坂に新しい風を吹き込んだなと改めて思いました。スタッフさんに「保乃ちゃん、逆だったよ」と言われて、「うぇっ!?どこですか!?」とリアクションしていた保乃ちゃんが面白かったです(笑)
エンドロールのときに、配信ライブのあとの様子が映っていましたが、ペンキを鼻につけている天ちゃんが良かったですね~w
5年間を2時間ちょっとにまとめている以上、出していない場面もたくさんあると思います。特に、みんながわちゃわちゃしているようなシーンがいつか見れたらいいなと思いました。KEYAKI HOUSEみたいな。
この映画は答え合わせのためにあるのではない
パンフレットを読むと、てちはインタビューに応じなかった(というより色々難しい時期だった?)ので、本人の言葉は基本的にありません。
そこを批判的に見る向きもあるとは思いますが、パンフレットで監督が言っているように映画では周辺の人の証言をもとに、特定人物を浮かび上がらせる手法は実際にあります。
ここから分かるようにこの映画は「ファンの答え合わせ」のためにあるわけではなく、欅坂46というグループを一人の映像作家が追ったとき、どう描くのか、どう見えていたのかという1つの姿だと思います。
だから、これはれっきとした「映画」です。
もし本当に答え合わせだけしたいなら、インタビューたれ流せばいいわけですが、それじゃあ映画になりませんからね。
ゆっかーも書いていましたが、「1つの作品」として見るべきだし、そこに描かれている欅坂46はすべてではないけれども、確かにそこにあった「真実」です。
新しいグループ名になって、欅坂46がどうなるのか。
不安な部分もありますが、きっと彼女たちなら大丈夫だろうと思いました。
誰一人欠けることなく、28人で欅坂を登りきってほしいです。
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